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怪獣映画『シン・ゴジラ』~あるいはなぜカヨコ・アン・パタースンは我々に愛されるべきなのか

シン・ゴジラ』である。すごい映画の誕生に立ち会ってしまった。
我々は「シン・ゴジラ以前」の時代の生き証人に、期せずしてなってしまったのだ。「以前・以後」となる境界作品はエヴァ以来2回目だぞ。なに考えてんだ庵野
というわけで、『シン・ゴジラ』である。庵野作品は、まず鑑賞してからグチャグチャと我流で解釈するのが正しい食べ方なので、遠慮なくネタバレしていく。
まだ観てないなら、まずはそのブラウザを閉じて映画館にGOだ!







  • 「虚構」現る

東京湾を漂流する無人のプレジャーボート「栄光丸」ならぬ「GLORY MARU」が発見された直後、巨大な爆発が起きて東京湾アクアトンネルが浸水。海底火山だチムニーだと右往左往する政府を嘲笑うかのように、有り得ない大きさの尻尾のかたちをした“災厄”が、洋上高々と突き上げられた。

…という今作のオープニング。個人的には、ここは『機動警察パトレイバー the Movie』だったと思う。
帆場暎一と牧博士の遺したそれぞれの言葉、

「彼、天より降りる。エホバ、天を垂れて下り給う。御足の元、暗きこと甚だし」
「私は好きにした。君らも好きにしろ」

もうどっちがどっちでも構わないというか、庵野監督はもうこの言葉が押井監督に使われちゃってたから仕方なく極端に俗っぽく振り切ったんじゃないか?という気さえする。
ところで牧博士。作中では「牧 元・博士」って呼ばれてるけど、「元・教授」ってことはあっても「元・博士」ってことはなくない?って思うんですよね。博士号剥奪なんてのがあるか知らないけど、そんなことがあったような気配もないし。ここは謎です。

閑話休題

「巨大不明生物」がはっきりと視認されてから、事態はさらに加速する。
後に作中でも推測されるようにこの巨大不明生物が群体化したら是非とも一匹は飼いたい「蒲田くん(第2形態)」が大田区呑川を遡行すれば、漁船やボートはまさに津波の如く巻き上げられていく。
上陸の可能性がああだこうだ、害獣駆除としてどれだけの「戦力」を動員できるか、治安出動なのか防衛出動なのか…空転する会議をよそに「蒲田くん」はその名の通り蒲田に上陸(逆)。政府は遂に災害緊急事態を宣言し、同時に巨大不明生物駆除のための「防衛出動」を自衛隊に命じることとなった。
しかし、蒲田から品川へと移動するうちに陸上適応が進んだ巨大不明生物は、「第3形態」へと進化して京急赤い電車を弾き飛ばす(これ伏線です)。
事態がここまできて、ようやく駆除のために出撃した陸自のヘリへと戦後初の武力行使命令がいったんは下るのだが、逃げ遅れた市民を発見した搭乗員の報告を受けて、大河内総理は攻撃中止を命じたのであった。

自衛隊の弾を、国民に向けるわけにはいかない!」

結局のところここで攻撃していたとしても無意味だったのが悲しいが(私見だが、『ここで撃っていたら倒せていた』というのはありえないと思う)この総理の決断は重く、勁い。ドラマとしての『シン・ゴジラ』の序盤のピークだと言える。
ここに限らず、今作での政府の対応の描写は「リアル」というより「誠実」だったと思う。ゴジラ映画を観に来ている我々観客はつい「ゴジラ相手に何を悠長なことやってんだよ」とその迂遠さを嘲りたくなってしまうが、それは無体というものだ。
彼らのうち、いや、作中の誰一人(牧博士を除く)として“ゴジラ”なるものを知らない。出所不明の動画から巨大生物の存在を確信したりしちゃう矢口蘭堂の(結果的には正しかったとしても)非現実的な「思い込み」こそ、言ってみれば「ゴジラ脳」なのだ。ギャグ的に繰り返される「想定外」という言葉そのまま、みぞうゆうの害獣災害に対して、実際のところはあの混乱こそが「現実」のはずである。

このあまりにも「現実」的な前半のシーンの中で、巧みに挿入されているのが赤坂補佐官の「今は正体を探るより対策を練るべきです」と「完璧ではないが最善を尽くしている」のふたつのセリフだった。
庵野監督が「現実(ニッポン)」に外挿した「ゴジラという虚構」のために際限なく混乱していくはずの状況を、『シン・ゴジラ』という物語に収束させていくためには欠くことのできない「枠づくり」だったと思う。
前者はどこに転がってもおかしくないこの危うい物語を「現実的対策」というストーリーへと定着させ、後者は徒労に終わったその営為が「この時点(=現実日本のシミュレーション)での限界の提示→このあと必ず訪れる飛躍(作中現実の『虚構』化)」のために必要な「通過儀礼」だったことを教えてくれるのである。
そう考えると、巨大不明生物の存在にこだわる矢口を諫めるシーンは、作中の「現実」に即したリアルな政治劇の小節のひとつでありつつ、同時にこの物語の中で「まだその段階じゃない」と「虚構」の侵食を食い止める果敢な姿だったのかもしれない。

ここでカヨコ・アン・パターソンが登場する。彼女は明らかに画面の中で浮いていた。
いや、浮いていることが悪いのではない。彼女には、例えこの物語のテンポを乱してでもああでなければならなかった理由があると思う。それは後述する。
カヨコは日本政府、そして「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」に“ゴジラ”という名前をもたらし、全ての発端となった牧博士という人物を認識させた。牧博士の研究を解読することが事態の収束に必須と考えている彼女は、米国エネルギー省のゴジラ・レポートと引き換えに牧博士の日本での痕跡を捜査するよう依頼する。

ちなみに、今作最強のポテンシャルを秘めたキャラクターは、古田新太から渡された(おそらく英文の)牧博士の経歴ファイルを一瞥しただけで「学会を追放された異端の学者、ですか」と瞬時にそのニュアンスまでも読み取ったモロ師岡だと確信している。手を叩くだけで唐突に正解へたどり着く間准教授が次点。

ここで大河内総理が語る「名前はあったほうがいい」という言葉。これは、作中の「現実」が我々に馴染み深い「ゴジラ映画=虚構」に一歩歩み寄ったシーンと見るべきだろう。
彼らはまだゴジラを即物的な危険としてしか把握していないが、少なくともその呼び名を“ゴジラ”とすることで、観客たる我々の持つ“ゴジラ”と印象の上ではイメージが共有されやすくなった。
「名付け」が存在を定義する、という概念は夢枕獏の『陰陽師』でも「呪(しゅ)」として登場する。この時点では消息不明だったゴジラがこのあとすぐ再登場した時、さらなる進化を遂げた巨大不明生物も、この“ゴジラ”という名前で呼ばれることで蒲田くんから進化したあの個体だと定義されることを意味している。
これもまた、巧みな誘導であると言っていい。「あれは同じ奴なのか?」などと言い出してしまったら、いつまで経っても「現実(ニッポン)」と「虚構(ゴジラ)」はわかりあえないからである。

巨災対が
ゴジラは体内で核融合反応を起こすことにより生体を維持している」
核融合反応で発生する膨大な熱量は、血液循環によって放熱されている」
「血液循環を阻害できればゴジラは生体維持のために核融合反応を停止させるはず」
という予測を元に血液凝固剤の経口投与をはかる「矢口プラン」の策定に邁進するのをよそに、ゴジラは再び現れた。
身長118m、鎌倉に上陸したゴジラは一路、東京を目指す。圧倒的な脅威と化したゴジラに対して政府は自衛隊による全面攻撃を決定。陸海空の統合により多摩川を最終防衛ラインとして(そのわりにはいきなり流域付近への接近を許すが)首都の防衛を作戦目標とする「タバ作戦」の発動である。

武蔵小杉に展開された統合任務部隊は、段階を踏んでゴジラへ攻撃を加えていく。ヘリによる機銃掃射、ミサイルでの攻撃、戦車部隊の砲撃(足への攻撃は効果ありと認む)、自走榴弾砲や多連装ロケットの間接砲撃(弾着、今!)、航空機による爆撃…そのことごとくがゴジラに命中する。その練度の高さたるや「当たりすぎだろ!」っていうくらいに当たる。
未見なのにここまで読んでしまった男の子は、まだ間に合うから今から映画館行きなさい。絶対に損はしないから。もうね、全部当たるの。流れ弾なし。すごいんだから。

そして、それが効かない。

もうもうと立ち込める空爆の爆煙から無傷のゴジラが現れると、統合作戦本部に詰めていた在日米軍スタッフが一斉に立ち上がって作戦室を後にする。呆然とする自衛隊幹部たちと、全力で退避に入る前線部隊。そんな中で、ピエール瀧隊長が
「攻撃だけが華じゃない。住民の避難を急がせろ!」
と涙ぐましいまでの対ゴジラ戦への責任感を発揮する…のだが、“華”っていう意識はやっぱりあったのね。うん、カッコよかったよ…。

その一方で、防衛大臣統合幕僚長の造形は…うーん。
文民統治の原則に忠実で、常に総理の判断を仰ぐ姿勢は凛としたものがあったけど、このへんは超実力派俳優をキャスティングしてしまった副作用(それとも狙ってた?)なのか、「いざとなれば徹底的にやります」のあたりにゾッとするような暴力性がにじみ出てたな、と。「火器の使用も含めて検討させていただきたい!」も恫喝的だったしね。
おそらくは巨災対のシームレスで柔軟な空気との対比なのだろうけど、「ウチの案件になったらウチでやる」というか、ある意味で「それ、どこの役所に言ったんですか?」への作中でのアンサーというか、要するに過激なセクショナリズム(しかも武力の独占という分野)を感じてしまった。
さらに、おそらくそのセクショナリズムは内部にも向けられていて、本作の名台詞として挙げられることも多い統幕長の「仕事ですから」も、個人的には『あんたの仕事は、自分でやることじゃなくて部下にやらせることだろ』と反発してしまった。
まあ、このへんは個人的な好みが強く出てくる部分なんだろうけど。

遂に都内へ侵入したゴジラ。その予想進路に官邸(つまりは永田町・霞ヶ関)も含まれることから政府首脳は立川への避難を検討し始めるが、それと前後して米軍が大使館救援を名目として空爆作戦を開始「した」との情報が入る。打診なしにいきなりですよ。さっき作戦室から立ち去った在日米軍スタッフはこれを具申しに行ったのね。

「東京が空爆に晒されるのを見届けなければならん!」

総理…立川も東京都です…(鑑賞初回、立川シネマシティで観ながら淋しくなった)。
とはいえ、米軍の本気の作戦が日本政府には止められないという無惨な現実を見せつけるかのように、米軍爆撃機から貫通爆弾がゴジラに投下される。あやまたずゴジラの背面を貫く爆弾。自衛隊の総力が通用しなかったゴジラが悲痛な咆哮を上げる。
この一撃によりゴジラは遂に人類を「排除対象」として認識した。鈍く赤い光を放っていた身体が鮮やかな紫に変色し…

ここからである。
ここからなのだ。
いや、これまでもよかった。生理的にクる第2形態の異形感や、まず4機のヘリと対峙する第3形態の存在感、鎌倉上陸以降のシーンは言うに及ばず、全体的に曇天だったのに1カットだけ(?)真っ青な空になっていたのが気になるとしても、とにかく白昼の日本を見たこともないサイズのゴジラが堂々と闊歩する姿。ありとあらゆるアングルを駆使して、この映画は“ゴジラ”を見せてくれる。
そして、ここに至ってついに、ゴジラ放射線流が東京を薙ぎ払う。自らの歩行で一帯を停電させたその闇の中で、荒ぶるままに死と破壊を撒き散らす“怪獣”。

断言する。庵野監督は、これがやりたかったのだ。

今作を監督するにあたり、庵野監督は「もう一度初代ゴジラをやろう」と企図した、と聞いている。初代ゴジラとは何か?それは、今までに見たことがないような圧倒的な“恐ろしさ”だったはずだ。
初代の時代は、それが口から放射熱線を吐く怪獣だった。そこから始まったゴジラ・サーガを既に知る我々、「ゴジラありき」の日本と世界に住む我々に、もう一度初代ゴジラを見せようとしたのだ。そのために何をすべきか?
答えは「ゴジラ(虚構)が“圧倒的に恐ろしい怪獣”であり得る現実(ニッポン)を作る」だった。執拗なまでにスクリーンの外の現代日本を超々高密度に描いてきたのは、俺たちに「ゴジラ、怖ぇよ!」と思わせるためだったのである。
原因不明の海中爆発&トンネル事故というあり得べき事故を発端として、“それ”が顕現してからも現実的すぎる対応を緻密に描くことで、ひたすらに「虚構」を溜め続けた。その一方で、既に語ってきたように、着実に「虚構」を「現実」に浸透させつつ、である。
この映画はポリティカルフィクションでもなければリアルな社会論評でもない。それらは全て、怪獣映画『シン・ゴジラ』のために用意された「前提」にすぎないのだ。

駅前でプロレスを観たあの蒲田が、新幹線でいつも通過するあの品川が、江ノ島以外の観光で成功したことがない鎌倉が、最愛のラーメン屋「丸仙」のある武蔵小杉が、特に思い入れのない永田町・霞ヶ関が、広島行きの新幹線に乗るための東京駅がぶち壊されていく様を…いや、ぶち壊していくゴジラをスクリーンから体中で浴びながら、ただ恍惚としていた。
街が壊れていく。ゴジラが街を壊していく。その光景がたまらなく魅力的で、美しかった。
こうして振り返ると、自分の感想はいかにもオタクらしい歪んだ嗜好だとはっきりわかる。
でも、たぶん、怪獣映画はそうやって観ても許されるはずだ。許してもらえなかったらごめんなさい。謝りますからこれからもそうやって観させてください。だって最高なんだもの。

  • 愛と祈り

「現実的な現実」として描かれ続けてきた日本が、いよいよ“ゴジラ”という虚構へと反撃を開始する。もう、ありえないほどヒロイックな、痛快としか言いようがない連続クライマックスがこれでもかとばかりに畳みかけられていく。
もちろん、主役は巨災対だ。はみ出し具合より有能さを際立って描写された、高度に最適化されたライトスタッフが大活躍する。間准教授がポンと手を叩くと曼荼羅が折り畳まれ、極限環境微生物が対ゴジラ最終兵器の最後のピースを埋めるのだ。
つまり、このシークエンスに入ってからは「現実」が消失する。怪獣映画『シン・ゴジラ』はひとつの巨大な「虚構(映画)」になって「現実(われわれ観客)」に突きつけられるのだ。この破れかぶれなほどに大胆なベクトル操作が、ヤシオリ作戦のカタルシスの正体だと思っている。
「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」に騙されてはいけない。
「現実(ニッポン<の観客>)対虚構(映画<シン・ゴジラ>)。」
このコピーは、こう書き換えられるんですよ。

しかし、そんな中でも作中の現実は現実としてあって、ソリッドな破局が暗示される。ゴジラ研究の最中に浮かび上がった「ゴジラの群体化(そして拡散)」と、その可能性に対する米国の「ゴジラ拡散を阻止するための東京への核攻撃」だ。日本政府と巨災対は苦悩する。核爆弾など落とされたくない。
しかし、赤坂は「アメリカは、これがニューヨークだとしても同じことをするということだ」と語る。ギャレゴジか?ギャレゴジへの庵野監督の手袋か?
だいたい、アメリカ映画は核を簡単に使いすぎるんだよ。『パシフィック・リム』は『シン・ゴジラ』より好きな作品だが、原子力に言及しているところは(ストーリーの根幹だが)単なる「超高性能爆弾」と無意識に置き換えて観ている、と自覚している。
…話が逸れた。核の話だ。日本への核攻撃…これが、今作の多国籍軍すなわち特撮ものの定番である「地球防衛軍」の出した答えだったのだ。

苦悩はすれども現実的にはどうしようもない日本政府はこの提案を受け入れざるを得ず、巨災対はそのための疎開に要するものとして与えられたタイムリミット中にヤシオリ作戦を実行するしかなくなった。

再びこのタイトルを出すことになるが、今度はまんが版。巨災対のようなライトスタッフものの系譜でもある『機動警察パトレイバー』で、後藤隊長が語る

「オレたちの仕事は本質的に手遅れなんだ」

この名台詞の負の部分、押井版パトレイバーでいう「正義の味方」には成り得ないもどかしさの中で、巨災対はヤシオリ作戦を進めていく。

そこに登場するのが、そう、カヨコ・アン・パタースンである。
地に足をつけ、現実的に着実に実績を積み上げることで与えられた状況に立ち向かう日本と巨災対に対して、「40代で(ポリコレ的な意味で語られなかったのであろうが、さらに言えば女性として)大統領になる」という個人的野心に正直な、まず理想を設定してそこに到達するために現実を利用していくという全く異なる行動原理を持つ彼女。
これは「能力」と「意志」の対置でもある。この立ち位置の違いはうっすらと示唆されていると感じる。カヨコに対して、矢口が自分のことを「傀儡」と表現した言葉がそれだ。
矢口は、本質的には意志の力ではなく切羽詰まった問題の処理としてこの事態に当たっている。「出世は政治家の本懐」として積極的に事態に関わろうとするカヨコとのスタンスの違いを指しているとすれば、ああも拘泥なく自分を「傀儡」と言うのも納得がいくのだ。

カヨコが異質なのはそうしたキャラクターとして作品に位置付けられているからなのであって、芝居が浮いてるからだとか全体のバランスを取るために用意されたツッコミ所のようなものではない。
怪獣映画『シン・ゴジラ』という虚構を最大限にそれっぽく見せるためにあれだけ執拗にリアリティを追求してきた庵野監督が、そんな隙だらけの演出をするとは、どうしても思えない。もしかすると、芝居のテイストの違いは「この子は他の誰とも違うんだ」というメッセージなんじゃないか、とさえ思っている。
絶望的な状況の中、それぞれの立場でそれぞれの能力を発揮していく日本人たちと交わりながら、彼女だけがはっきりと「自我」と「意志」を示している。巨災対のメンバーが手に手に「武器」を携えているのに対して、カヨコは「旗」を掲げているのだ。これが、彼女の放つ「違和感」の正体なのである。

そんなカヨコが、米国の作戦を知って顔色を変える。
「あたしの母国に、この国へそんなことをさせるわけにはいかない」
人道的愛に満ちた言葉だ。これまで何度も、原子力の災禍を体験してきた日本人への、庵野監督のエールだと受け止めた。それだけはダメだ、と。
映画が「虚構&虚構」となったことで行き場を無くした「現実」が、「現実(日本)対現実(原子力)」として再配置される。今の日本でしか作れない映画を撮る、というのはこういうことか、とも思うのだ。

ヤシオリ作戦は、この虚構と現実が交錯するところに位置している。
新幹線を、高層ビルを、在来線を、今までの怪獣映画では破壊される対象だった人間の営為をもってゴジラを倒すのだ。真摯に、忠実にゴジラを怪獣映画をリスペクトしてきた庵野監督が、オリジナリティとして選択したのがこのパートなのだろう。
初見のとき、直感的に「うわー!ビルでゴジラを倒した!」と感動したのだが、3回目にこの選択が意図的だと確信できた。
カットの順番である。定置爆弾による発破の際、爆破→内装の揺動→倒壊(攻撃)なんですよ。今作に、これと真逆の順番がある。蒲田くんが団地を押し倒すシーンだ。のしかかる→内装(ある家族)の揺動→破壊。きれいに逆転してるでしょ。
それに気づいて以来、斜めに滑っていく椅子やロッカーまで応援せずにはいられない。「今までよくもやってくれたな!」と眦を決しているようだ。
そして、無人在来線爆弾。理屈としては「無人の車両に積載できる爆弾量が大量だから」なんだろうが、ここに込められたメッセージはそうじゃない。
京急の仇だ!」
これしかないよね。もしまた発声可能上映があったら、絶対に参加してこれを叫んでやりたい。これの伏線として、あんなにわざとらしく京急を吹き飛ばしてるんだもの。
おそらくだけど、ここは「築き上げてきた人類の文明による反撃」とかはあったとしてもそれはさほど重要じゃなくて、ただただ「ビルでも!電車でも!ゴジラをやれるんだよ!」でいいんだと思う。オタクってさ、お約束をひっくり返すのが大好きなんだよね。

次に、ゴジラが「倒れる」ということについて。
この作戦の泣き所は「立てばいいじゃん」だと思うんだけど、それをさせないことについてもきちんと準備をされてるんじゃないだろうか。
まず、タバ作戦のときに唯一、微かに効果があったと思われるのが戦車による脚部への攻撃だったということ。
第二に、今作のゴジラのデザイン。個体進化(そういえばFSSのドラゴンもこの解釈だった)という生態を持つ最強生物、というのがこの作品のゴジラの位置付けで、そのサイズからしても「倒れる」ことを前提にしていない進化だったのではないか、と。「尻尾長すぎじゃないですか」と東宝にツッこまれた時に「この長さじゃないとダメなんだ」と庵野監督か樋口監督が説得したそうなんだけど、万が一の転倒を防ぐための発達した腰下と後肢、そしてバランサーとしてのあの長大な尻尾と考えれば説明がつく。これだけの理由があれば東宝さんが納得したのも頷ける。
つまり、ゴジラは「立たない」んじゃなくて「立てない」ってことになる。一度倒れたらそう簡単には立てないはず、という計算があったからこそ、列車爆弾で転倒させる作戦が選ばれたのだろう。

そして高所放水車。これがヤシオリ作戦の「現実」部分の担い手となる。
ヤシオリとは「八塩折之酒」のことで、スサノオヤマタノオロチを退治するときに飲ませて眠らせたという伝説がある。荒ぶる神に捧げられた供物、鎮まることへの祈りの行為。
あの時、我々は福島からの映像を見ながら祈っていた。「これで鎮まってくれ」と。これ以上の災いはいらない。荒ぶるのを止めてくれ、と。
ゴジラへの供物。日本人の祈り。何もなかったことにすることはできないけれど、せめてここまでにしてほしい。もうこれ以上は嫌だ、と。

ヤシオリ作戦は、怪獣映画の定番を逆手に取った新時代の虚構と、まだ痛みの残る現代の現実が交錯したものなんだと思う。

  • もうひとつの「現実対虚構。」

このヤシオリ作戦の指揮所に選ばれたのは、北の丸公園科学技術館。ここは、目的もないままに原爆を自作し、その手製原爆で日本国を脅迫するという型破りな主人公を沢田研二が演じた『太陽を盗んだ男』のクライマックスの舞台でもある。樋口監督はこの『太陽を盗んだ男』の大ファンだそうで(本当に名作だと思う)、意識されていないはずはない。

ただ気になるのは、単に最終決戦の舞台というだけでなく、エピローグの矢口とカヨコの対話シーンもここだったということだ。この現場に立って意思を疎通させるというシーンはやはりどうしても「対決」を想起させられるわけで、一見イチャイチャしてるだけに見える最後の2人の対話は、もしかすると何かの「対決」を含んでいるのかなぁ、と。
それとももっとシンプルに、眠れるゴジラとカヨコ&矢口との戦いはまだ終わっていない、ということなのだろうか。

どうしてもあとひとつ、触れておきたいものがある。『エヴァンゲリオン』との関連だ。『シン・ゴジラ』は『エヴァンゲリオン』なのか?自分は、どうしてもそう思えないのだ。
シン・ゴジラ』には、逃げる人物が出てこない。シンジがいないのだ。シンジがいないから、シンジを抑圧するゲンドウもおらず、抑圧されて内向的に肥大化するシンジの自我の発露としてのエヴァンゲリオン初号機も登場しない。

今作で描かれるのは、圧倒的な破壊神・ゴジラの脅威に対して諦めたり逃げ出したりすることなく、スタンスの違いこそあれ事態の解決に主体的に関わっていく大人たちの姿だ。とりわけ巨災対に至っては、はみだし者、異端児、オタクという類型化されたキャラクターを与えられつつ、彼ら彼女らの内面的な葛藤や個性は徹底的に排除されて、ひとつの「対ゴジラシステム」としてどこまでも機能的に活動していく。

これ見よがしの露骨なセルフ・オマージュによって『エヴァンゲリオン』を意識させられればさせられるほど、自分は「これはエヴァじゃない」という思いが深くなった。
それはもしかすると、10代の思春期に「シンジは俺だ」とのめり込んだ自分が今のこの時代に、否応なく社会とこすれ合いながら生きていく中で「俺もそうやって生きたかった」と巨災対の面々を羨望の眼差しで見上げてしまっているからなのかもしれない。

自分でも呆れるほどに長々と書いてきたが、とにかく要するに『シン・ゴジラ』はすごい、ということだ。「日本にゴジラが現れる」というワンテーマだけで、ここまでの作品が作れるものなのか。ゴジラを再び日本に上陸させてくれた庵野監督、ありがとう。
緻密で誠実な現実描写に基づいた、幻想的で爽快感溢れる空想物語。フィクションには、これだけの力があったのだ。今作のゴジラはAR(拡張現実)なのかもしれない。
あるいは、演出意図のために大胆に省略や誇張のできるアニメーションとは違う、ミニチュアやジオラマを駆使して撮影技術で画面を作っていく特撮という技法へのリスペクトなのだろうか。
ゴジラ万歳。フィクション万歳。シン・ゴジラ万歳。
そうだ、俺はこういうのが大好きだったんだ。

庵野監督、いつか筒井康隆原作はいかがでしょうか。庵野監督の『48億の妄想』、観たいなぁ。